奈美は修学旅行で青函連絡船に乗ったとき、父が好きだったマンサクの花を函館の海に捧げた。
しかし、感傷的にはならず、ただ淡々と語られる。
川村さんは、エッセイのなかで、
「心中は怒りに突き上げられて身を震わせる思いであっても、文章は淡々と平明に乾いていなければならない」と書いているそうだ。
この十津川物語も淡々と書かれているが、作者の思い入れは言葉に尽くせないほど熱い。
行方知れずになっていた豊彦についても、記者や作家になった人を登場させて、その行方を探らせている。
彼らも同志であったが、突然姿を消した豊彦がスパイと疑われた嫌疑を晴らすために調べていた。
浮かび上がって来たことは、福岡で拷問の末に亡くなった活動家が豊彦だったという推測だ。
はじめなかなか認めようとしなかったフキだったが、20年の時を経て豊彦の弔いをする。
その日は、開村70周年の式典が行われる日だった。
式典にはもんぺ姿で出て、豊彦の弔いには子や孫から送られた絹の着物を着た。
百姓の正装はもんぺだからというフキの考えからだった。
9歳で山津波のために父母を亡くし、北海道に渡らざるを得なかったフキは、遊ぶこともなく働き詰めだった。
80歳になり、本気になって孫たちとべったんに興じる。禁じてはコッツン。
ぼくたちは、コッキンと言った。